人生2度目の転職

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転職

人生2度目の転職。不動産会社へダイレクトアプローチ。

2019-03-22

最初の転職・周りの諸先輩に勧められた転職・・・

前のページに書いた通り、社会人初の会社と比較すると年収は約2倍近く(最初が低すぎ・・・)になり、やっと500万円台になりました。 でも、経営側と従業員との間に溝がありました。それが原因だと思われる営業職の退職が止まりませんでしたね。

思い出してみると、2年間で14人辞めてましたね。 不動産業界は、確かに定着率は低いと言われますが、ちょっと多かったですね。

そして、ダイレクトアプローチ(社員募集してない会社に飛び込み)で、転職活動をして、入社した会社が、東京の池袋にあるサンシャイン60に本社のある会社でした。

この会社では、戸建てとマンションの分譲販売のノウハウを身につけました。 次第に、現場のリーダーの仕事も任せられるようになり、スキルアップしていったある日事件が起きてしまいました。(ちょっとオーバーですが、僕らにとってはやはり事件でした。)

2度目の転職・仕入れ済みだったマンション予定地を他社へ売却・・・北海道からの撤退が決定

1995年には、再建計画が打ち出されていた状態になっていたことは、知っていました。 しかし、僕らにはおそらく驕りがありましたね。こんな大きな会社が潰れるようなことはない、と。

ある日の会議の席で、支店長からの本社決定「マンション用地を売却し、1年以内に撤退する。」が伝えられました。 このメッセージは事件でした。 社員は全員即時解雇ではなく、1年後に解雇されることが分かったのです。 この時点で、会社は清算する可能性が強いとの発表もあったように記憶しています。最終的には、その後産業再生等の方法は取ることが出来ず、「特別清算」となりました。

そして、僕には又しても「転職」の時が来てしまいました。 又しても、ダイレクトアプローチです。不動産業に入った自分は、「天職」ではないかと考えていた位にやりがいは感じていましたが、再建途中の会社でしたので、収入については、不満を燻らせていました。

そして、自分の営業力を試したく、生保業界に入ることを決断しました。それまでのサラリーマン給与制度からすると、生保業界は基本的にフルコミッションの世界です。実績が上がれば上がるだけ、逆に下がれば限りなくゼロに近づくという制度の業界です。

3度目の転職・生命保険業へ飛び込む

いくつか男性営業のいる生保会社も含め、調査し、ソニー生命に入社しました(現在ではソニー損保の方が有名かもしれません)。

後から来た話では、通常は保険会社側からのリクルートにより入社するケースしかなく、自分から来る人はいない、と言われ異質な人間と思われていたようでした。

生保の仕事は、なかなか厳しいものでした。 一般的にも生命保険が売れたら、他の営業ならなんでもできると言われていた時期がありましたね。 そうなんです。 生命保険という商品は、原則支払っている人がその商品を手にすることがないのです。 手にするのは、遺族ですからね。今は、医療保険もありますので、支払いをしている本人も保障が得られる商品(保険)も色々とあるようになりました。

そして、やはり仕事はハードです。 名刺を受け取ってもらえない仕事は、これが初めてでした。社交辞令で受け取ってもらっても、あとで床に落ちていることもありました。 保険の仕事自体は、難しくはなかったのですが、お客さんを見つけることが何よりも困難でした。 お会いできてきちんと話を聞いてもらえると、50%以上の確率で保険契約をもらうことが出来ました。しかし、ハードな仕事でした。

結局2年間に、プライベートな出来事も重なり、この仕事から撤退することになりました。

またダイレクトアプローチ転職です。

この時点で40歳を超えて、転職の選択肢が好くなっている状態で、自分の経験を活かせる業界は何か?と自分に問いかけると、それはやはり不動産業なのでした。

4度目の転職・天職の不動産業へ戻る

ダイレクトに、当時マンション業界では最大手であった◯京の北海道支社の支店長宛に電話を入れたのです。 こうしてみると、かなり大胆な行動です。多分、そんな人間は過去にもいなかったようで、支店長面接の時には面白がられたような記憶があります。 しかし、想像もしないこともが待っていました。

札幌での面接で内諾をもらい、東京本社の人事面接でも好感触を得て、個人的には入社のための準備を整えた頃に、人事から届いたのは「不採用」の通知でした。 あの時は、ものすごく焦りました。 人事部へ直接電話をかけて時間談判です。問題は僕の年齢でした。42歳でした。 そんな年齢の新入社員は取ってないということでした。それでも食い下がり交渉の結果、今でいう契約社員として入社したのです。 1年後の実績を見てその後を判断するということでした。

転職先・周りは皆ライバル。読書量で勝ち上がった。

結果、1年後には小さい現場のリーダーを任せられるようになり、その後も「自分の周りは皆ライバル」と考え、責任と役割は年々上昇し続け、5年後には40過ぎの途中入社の自分でも7桁の年収を貰うことができました。 自分以外は皆プロパー社員という環境は、一人も味方がいない四面楚歌状態でした。しかし、その状態が自分を強く成長させてくれました。

その後のリーマンショックで、年収は多少下がってしまいましたが、役割は支店の責任者の一人になっていました。 このころの経験が今の自分を作ってる感が非常に強くあります。このころの読書量が多分これまでの生涯で一番多かったです。

読書が最高の勉強であり、読書量と年収は比例するという本を読んだ時には、「本当にそうだな」と思いましたね。

そして、52歳の時になると、またまた事件です。◯京の北海道撤退です。東京大阪への転勤か退職上乗せで辞める道を選択することになりました。 この時、40名近くいた支店は二つに別れました。転勤と退職です。

52歳の自分が、これから知らない街で不動産業をすると言うのは、自分にはあまりにもリスクでした。退職しても、50過ぎですから、流石のダイレクトアプローチも無理だと思い、ついに起業する事になりました。(その後は、また北海道支店は、社員が戻り事業再開しています)

この時に選んだ次の仕事は、売買仲介業での起業です。新築販売しか知らなかった僕が、このあと悪戦苦闘をしていきます。それはまた次回に。転職から、いよいよ起業へ

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